鉄道や飛行機の無い時代、京都と大阪とを結ぶ 水運・十石船と三十石船は、 薩長同盟の実現に向けて東西を奔走したり、 お龍を連れて薩摩へと旅立った際の龍馬や当時の人々の 良き足となったのではないでしょうか。 今は観光船として復活し、春から秋にかけて運航しています。 e京都ねっと : 京の酒どころ・伏見モデルコース |
伏見は、京都と大阪を結ぶ三十石船、伏見と二条を結ぶ高瀬船の乗り換え地であり、
交通の要衝でした。「伏水」と呼ばれるほど豊富な地下水が涌き、酒造りが盛んに行われ、
人・物・情報が集まる場所として栄えてきました。
鉄道や飛行機の無い時代、京都と大阪とを結ぶ 水運・十石船と三十石船は、 薩長同盟の実現に向けて東西を奔走したり、 お龍を連れて薩摩へと旅立った際の龍馬や当時の人々の 良き足となったのではないでしょうか。 今は観光船として復活し、春から秋にかけて運航しています。 e京都ねっと : 京の酒どころ・伏見モデルコース |
中書島エリアにはかつて花街があり、このお寺の建つ辺りには 「紅屋」というお茶屋があったそうです。 その紅屋に龍馬がいると聞きつけた伏見奉行所の捕手が 乗り込んで来たという逸話が残ります。 e京都ねっと: 行事カレンダー1月6日 関連サイト : 京都観光Navi 長建寺 |
龍馬の紹介で寺田屋に預けられていたお龍は、 事件の当初は風呂に入っているところで、 幕史の気配を察知してとっさに裸で階段を駆け上がり、 龍馬に危機を知らせました。 捕方に対して龍馬は銃で、三吉は槍で反撃、 龍馬は手を負傷するも脱出に成功し、窮地を救われたとされています。 e京都ねっと : 京の酒どころ・伏見モデルコース |
龍馬が寺田屋で襲撃された際に逃走したルート上にある商店街で、 かつては船宿や御用定飛脚などが店を構えていました。 現在は龍馬グッズから伏見の水で淹れた珈琲のほか、 日用品まで売られていてるのがアットホームな雰囲気です。 関連サイト : 龍馬通り商店街 |
毎月第3日曜日(8、12月を除く)には「お登勢市」(10~16時)が 開催され(出品者も募集中)、龍馬の誕生日である11月15日前後の 休日には「龍馬祭」があります。 |
油をかけて祈願すれば成就するという珍しい「油懸地蔵」。 寺伝によると、その昔大山崎の油商人がこの地蔵の前で転び、 油をこぼしてしまったので、仕方無く残りの油を地蔵にかけて帰ったところ、 商売繁盛して大金持ちになったといいます。 寺田屋で襲撃された龍馬は、この油懸地蔵の陰に身を 潜めたのではという伝説があります。 関連サイト : 京都観光Navi 西岸寺 |
寺田屋で伏見奉行所の捕方から逃れた龍馬と護衛の長州藩士・三吉慎蔵。 負傷した龍馬を三吉は濠川の畔の材木納屋に潜ませ、 薩摩伏見邸に救援を求めました。 関連サイト : 坂本龍馬避難の材木小屋跡 |
寺田屋事件勃発の際、お龍は龍馬を逃がし、 自ら薩摩伏見邸に知らせに駆け込みました。 龍馬の護衛を務めた三吉も救援を求め、 ここから藩旗を立てた船が出され、龍馬が運び込まれました。 関連サイト : 薩摩島津伏見屋敷跡 |
この屋敷は薩摩藩が江戸と薩摩を往復する際の滞在地であり、 後に13代将軍徳川家定の正妻となる、島津斉彬の養女・篤姫 (天璋院。NHK大河ドラマ「篤姫」主人公)も、 江戸への道中に、この屋敷に入ったといいます。 |
薩摩藩の祈祷所。同士討ちという悲劇を生んだ寺田屋騒動で 犠牲となった有馬新七らをはじめとする九烈士の墓が 西郷隆盛によって建てられてました。 幕末に西郷隆盛や大久保利通らが国事を論じたという一室があるほか、 明治維新の志士の遺墨等を所蔵しています。 関連サイト : 京都観光Navi 大黒寺 |
各藩の大名屋敷の台所番を務めていた料亭。 鳥羽・伏見の戦いの際、この料亭の前を通る京町通では、 銃砲を装備した薩摩藩率いる官軍と刀で立ち向かう 奉行所や新選組の幕軍が入り乱れて激しく戦いました。 店の表格子には、この時の弾痕が刻まれています。 関連サイト : 料亭 魚三楼 |
鳥羽・伏見の戦いの際、薩長の両藩による新政府軍の本陣が置かれました。 湧き水「御香水」は名水百選にも認定され、今でも水を汲みに来る人が訪れ、 かつての薩長軍からも重宝されていたかもしれませんね。 e京都ねっと : 京の酒どころ・伏見モデルコース |
薩摩藩将兵800人が御香宮を中心に固め、 当社と大手筋を挟んだ南の伏見奉行所へと砲撃しました。 関連サイト : 明治維新伏見の戦跡 |
鳥羽・伏見の戦いの際、会津藩と新選組が宿陣としましたが、 官軍に砲撃により焼け落ちました。 関連サイト : 京都観光Navi 伏見奉行所跡 |