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月下氷人石(げっかひょうじんせき)

南楼門南側に立っています。
建立された天保10(1839)年当時の案内板的な役割を果たしていたようです。
表面にはの建立のいきさつを、右側に「たづぬる方」、左側に「おしゆる方」と彫ってあります。

[スキマ情報]
江戸時代、迷子になった子を探すため石碑の片側に迷子の名前等を書いた紙を貼り、
情報を持っている人が反対側にその情報を書いた紙を貼るという習俗がありました。
京都では誓願寺の迷子しるべや北野天満宮の奇縁氷人石が残存しています。
もとは忠盛灯篭と同じ場所にあり、幕末に刊行された『東山名勝図会』にも描かれています。
神社の「平成大修営」によって平成8年に現在地に移されました。

円山公園

「祇園の枝垂れ桜」が有名な、明治19年開設の京都市最古の公園です。
86600m2という広さで、池泉回遊式庭園の周りに料亭や茶店、野外音楽堂、坂本龍馬と中岡慎太郎の
銅像等が散在しています。桜の名所でもあり、京都っ子のお花見宴会の場として人気があります。
 
[スキマ情報]
平安の頃の円山公園一帯は、薄や葛が一面に生い茂り、「真葛ヶ原」と呼ばれていました。
鎌倉時代には慈円僧正が新古今集に「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ヶ原に風さわぐなり」と
詠んだ事で和歌の名所となりました。
江戸期には安養寺塔頭の六阿弥(左阿弥、也阿弥など○阿弥と称した六坊)が席貸を始め、
賑やかになっていきます。呼び名の「円山」は「慈円山安養寺」に由来していると伝えられています。
明治19年には京都府の公園に指定され、明治22年には京都市に管理が移されました。
大正年には、造園家・小川治兵衛によって回遊式日本庭園に造り替えられました。

園山大弓場(えんざんだいきゅうじょう )

日置流の弓道場ですが、初心者、学生、社会人、流派不問で練習する事ができます。
八坂神社の石段下から北東に伸びる坂道を100m程登った左側にあります。
立射ではなく、座って射る騎射スタイルです。

[関連リンク]
園山大弓場

枝垂れ桜

円山公園の枝垂れ桜は現在2代目で、樹齢80年を越えます。
桜守として有名な佐野藤右衛門さんの父親が先代の枝垂桜の種を自宅の畑に撒き、
発芽したうちの1本を藤右衛門さんが生まれた日に植えられたもの。
当代佐野藤右衛門さんとはほぼ同い年と言えます。
他の兄弟桜の中で、先代が息子の為に残しておいたという1本は、
先代が倒れたその年から弱り始めたといい、花が散った1ヵ月後に先代は亡くなり、
後にその桜も突然枯れてしまいました。この出来事がきっかけで、
当時の藤右衛門さんは、桜守としての仕事への思いが強くなったそうです。
 
[スキマ情報]
昭和25年のジェーン台風の時には、先代の佐野さんがこの幹にしがみついて暴風雨から必死に守り、
その翌年に初めての花を咲かせたといいます。

祇園小唄碑

"「月はおぼろに東山...」で始まる祇園小唄は、昭和初期に長田幹彦が茶屋「吉うた」で
作詞した舞妓の舞でお馴染みのです。マキノ映画「絵日傘」の主題歌として昭和5(1930)1月に
レコードが発売され、大ヒットとなりました。
また、4世井上八千代の振り付けにより祇園の芸舞妓がお座敷で必ず舞うようになり、
京を代表する舞踊に。作曲は佐々紅華(さっさこうか)で、歌い手は藤本二三吉でした。
長田幹彦は当時のベストセラー作家であり、他にも『祇園夜話』等の作品で知られています。
祇園小唄の歌碑は、円山公園内に洋画家・和田三造のデザインによって建てられています。"

[スキマ情報]
「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや
だらりの帯よ  幹彦」と刻まれています。
長田幹彦自筆のこの歌碑は、茶屋「吉うた」の2代目女将・お龍の長年の働きかけで、
昭和36年に佐々紅華の譜面銅板と共に設置されました。

長楽館

明治中期に「タバコ王」と呼ばれた村井吉兵衛が建てた迎賓館で、外観はルネッサンス風、
内部はロココ、ネオ・クラシック、アールヌーボー調の洋館です(京都市指定有形文化財)。
現在はホテルとして営業しており、レストランやカフェを利用する事ができます(見学のみは不可)。

[スキマ情報]
「長楽館」の名前は伊藤博文が付けました。

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長楽館

京都祇園らんぷ美術館

八坂神社の南隣 。明治時代の日本製や外国製の石油ランプ約700点が展示されており、
石油ランプに特化して数多く展示した珍しい美術館です。

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京都祇園らんぷ美術館

祇園会館

昭和33年より世界の名画を上映している映画館で、祇園をどりの会場にもなっています。

何必館・京都現代美術館

人や物、思想などを縛る「定説」を「何ぞ必ずしも」と疑う自由の精神を持ちつづけたいという願いから
名づけられた現代美術館です。苔むす光庭を臨む茶室もあります。

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何必館・京都現代美術館

花見小路通

南北に伸びる祇園のメインストリートの一つですが、
一般的に「花見小路と呼ばれる界隈は四条通り沿いの一力亭のある角を南に曲がったところを
指す事が多いようです。名称の由来は定かではありませんが、
明治7(1874)年に祇園甲部お茶屋組合が祇園町南側の一帯の土地を京都府から譲り受けた際に、
南北を貫く小路が開通しました。
大正2(1913)年に祇園甲部歌舞練場が新築移転したのを機に脚光を浴び、
昭和24(1949)年には拡幅されました。平成14年には石畳が敷かれています。

[スキマ情報]
通り沿いの各家の軒下に組まれた木の柵のようなものは「駒寄せ」。
もとは人馬の侵入を防ぐものだったようです。上階には簾が下がり、
千本格子などが町家の風情を醸し出しています。「都をどり」の期間中は、
「つなぎ団子」の提灯が下がり、町をあげて盛り上げます。

一力亭

黒塀と赤壁で知られる江戸初期創業の老舗茶屋。
人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の七段目「祇園一力茶屋の場」で、
大石内蔵助をモデルにした人物が通う茶屋として有名になりました。

祇園甲部歌舞練場

都をどり開催場として、明治6年に建仁寺塔頭清住院が歌舞練場として改造され、
大正2年に現在地へ移転しました。平成13年には有形文化財に登録されています。

[スキマ情報]
戦中は大型風船製造工場として軍事用に、戦後は進駐軍米軍専用のダンスホールとして
使用されましたが、昭和期の修理の間だけ四条南座で上演された以外は、
都をどりは毎年ここで上演されています。

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祇園甲部歌舞練場

弥栄会館・ギオンコーナー(京都伝統芸能館)

祇園甲部歌舞練場に向かって左手にあり、茶道、琴、華道、雅楽、狂言、京舞、文楽といった
日本の伝統文化をダイジェスト版で鑑賞できる「ギオンコーナー」と、
気軽に茶道が体験できる「茶道体験教室」があります。
玄関ロビーには、舞妓さんや花街文化を紹介した絵画・写真・映像・小物などを展示する
「舞妓ギャラリー」があります。

[スキマ情報]
弥栄会館は、昭和11年に劇場建築の第一人者・木村得三郎の設計によって建てられました。
白鷺城(姫路城)を模してデザインされたといわれています。
昭和35年に京都会館ができるまでは、京都のメインホールとして利用されていました。
国の登録有形文化財。正門も同年に建てられましたが旧来の間口の狭い門とは異なり、
当時増加しつつあった自動車の乗り入れを配慮した作りになっています。

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一言コラム

八坂倶楽部

1階は特等客向けの待合・点茶等の用途に用いられ,
2階は132畳敷の客席と舞台のある広壮な舞台座敷です。
大正2年築、木造2階建ての入母屋造、瓦葺の大屋根や軒唐破風付の玄関を設け,
東面と南面から庭園を望みます。登録有形文化財。

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八坂倶楽部

八坂女紅場学園

祇園甲部歌舞練場の隣に建っています。
祇園における芸舞妓が歌舞音曲や茶道、生け花などを稽古する研修所。
もとは明治5(1872)年に丸太町通土手町に設けられた女子教育機関「新英学校女紅場」。
女紅(にょこう)とは、裁縫や手芸、手工を指します。
「新英学校女紅場」は後に女学校を経て1901(明治34)年に京都府立第一高等女学校(現鴨沂高校)
へと発展します。女工場は京都の勧業政策の一つとして各区に置かれ、祇園・島原・上七軒・宮川町等
といった花街にも設立されました。祇園では「下京第十五区女工場」と呼ばれており、
明治14年に「八坂女紅場」となりました。

[スキマ情報]
丸太町橋西詰に女紅場跡の石碑があります。

建仁寺

臨済宗建仁寺派の大本山で、1202(建仁2)年に栄西禅師が建立した京都最初の禅寺です。
俵屋宗達作の「風神雷神図」(国宝)や海北友松の「竹林七賢図」、小泉淳作の天井画「双龍図」で
知られています。京都五山の第三位。

[スキマ情報]
近隣の人々は親しみを込めて「けんねんさん」と呼ぶそうです。
開かれた当初の建仁寺の寺域は、鴨川べりまで続いていたといいます。
あるとき河原で生活する男が家族の困窮を寺に必至に訴えました。
それを聞いた栄西は、仏像を鋳造するための銅材を男に与え、僧侶たちを驚かせました。
戒律を重んじた栄西ですが、御仏の資材を流用するという罪よりも、
今を苦しんでいる衆生に施すことこそ仏意と考えての行動でした。

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本山めぐり

安井金比羅宮

恋愛、賭け事、病気などのあらゆる悪縁を断ち、良縁を結ぶという「縁切り神社」と呼ばれています。

[スキマ情報]
平安末期頃、この地には崇徳上皇が寵妃の烏丸殿を住まわせていましたが、
保元の乱に敗れた上皇が讃岐に流され、崩御。
二人の仲を引き裂かれた上皇の想いがいつの間にか「男女の仲を妨げるあらゆる悪縁を切る」
としてこの社に伝えられたのだそうです。
現在では夫婦や恋人同士の仲を断ち切りたいという願い事まで増えていきました。
この現象は祇園という花街がある土地柄と無縁ではないのかもしれません。

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えんむすび

崇徳天皇御廟

保元の乱で敗れ、配流先の讃岐国で没した上皇の霊を祀っています。
血書をもって京への御還幸を願うも叶わず、憤怒の姿で46歳の生涯を閉じたという上皇。
厚い寵愛を受けていた阿波内侍は、遺髪を請い受けて、
ここに塚を築いて亡き上皇の霊を慰めたと伝わります。
後に孝明・明治両天皇の聖慮により白峰神宮が創建されました。

井伊美術館(旧中村甲刀修史館)

歴史と武具の研究家・井伊達夫氏が集めたり、寄託されたりした兜や甲冑(西洋のものも所蔵)、
軍配、采配などを中心とした博物館。同氏の出身地「彦根藩井伊家」の朱具足の体系的コレクションや
彦根藩文書類のコレクションも見ものです(不定休のため要問い合わせ)。

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井伊美術館

恵比須神社

商売繁盛、交通安全(海路安全)の神として信仰を集めています。
平安末期、栄西が宋から帰路の途中で暴風雨に遭い、波間に見つけた恵比須神を船中に祀ると、
たちまち風雨が止んだといいます。
そのことから、建仁寺創建の際山内に恵比須神を祀ったのが始まりといいます。
応仁の乱後に焼失後、今の地に再建されたといいます。

[スキマ情報]
鳥居には、福箕と熊手が飾られています。

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都七福神めぐり

宮川町歌舞練場・東山女子学園

昭和44(1969)年に完成しました。「京おどり」の舞台となっています。
東山女子学園は舞妓さんの養成所。
舞や長唄、笛、清元など、一流の師匠の元で若い女子らが日々鍛錬を積んでいます。

祇園白川

花見小路より落ち着いていて、祇園らしい情緒のあるエリア。
また、桜と柳の並木が美しいことで知られており、白川沿いの飲食店から眺めを楽しんだり、
ライトアップされた夜桜の中を散歩できるスポットとして人気です。

辰巳大明神

芸妓達が芸の上達を祈願します。「辰巳明神」とも呼ばれます。

吉井勇(いさむ)碑

祇園白川沿いある歌碑には「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる」と
吉井勇の歌が刻まれ、毎年11月8日には碑前で「かにかくに祭」があります。
吉井勇は、東京生まれの歌人・劇作家で、1938(昭和13)年以後は殆ど京都で暮らしていました。
吉井勇がこの歌を詠んだのは、歌碑の建つ地にあった茶屋・大友(戦時中の強制疎開で消失)
であったと言われており、歌碑の傍らに女将の多佳が愛したとされるあじさいがあります。
歌は彼が20代の時の作で、明治43年に森鴎外を顧問とする雑誌『スバル』に発表されたものです。
吉井勇は、『酒ほがひ』『祇園歌集』など多くの歌集を残しています。
新詩社の『明星』等に参加し、戦後に復活した「都をどり」の歌詞を作り続けました。

[スキマ情報]
若い頃の吉井勇は、華族の出身で遊里を愛し、早稲田大学を中退するほどの放蕩息子でしたが、
貴族院議員だった父親は、己の好む道なら秀でよと、遊興の費用を惜しまず息子に与えました。
その甲斐あってか、勇は遊里を主な主題とした歌人として成功をおさめ、
戦後に復活した「都をどり」の歌詞を作り続けました。

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今日の京

目疾(めやみ)地蔵(仲源寺)

「雨止地蔵」が後に「目疾(めやみ)地蔵」と呼ばれるようになり、
眼病に霊験があるとして信仰を集めています。
治安2(1022)年に定朝が四条橋の東北に地蔵尊を祀ったのが始まりだといわれています。
安貞2(1228)年の洪水の際に雨が止むよう祈願を行い、後堀川天皇の勅願寺ともなりました。

八坂神社御旅所

毎年7月17日の祇園祭・神幸祭で八坂神社から祭神を移した神輿が渡御し、
24日の還幸祭まで留まる場所です。古くは大政所御旅所・少将井御旅所の2ヶ所にありました。
豊臣秀吉の命により四条京極の一ヶ所に移転し、
1912(明治45)年の四条通り拡幅に伴い、現在の姿に至ります。
 
[スキマ情報]
かつての御旅所「八坂神社大政所御旅所」は、
豊臣秀吉の命で移転するまでは烏丸仏光寺を下がった大政所町にあり、
現在その地には小さな祀が建っています。

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祇園祭

冠者殿社(かんじゃでんしゃ)

八坂神社御旅所に隣接する境外末社です。八坂神社の荒魂を祀ります。

[スキマ情報]
毎年10月20日に「誓文払い」というお祭があります。
昔の商人達は神様にお商売ができる感謝と、利益を得る償いの気持ちから、
一年に一度の大安売りをして、お客さんに利益を還元していました。
「誓文払い」とはいわゆる還元セールのようなものですね。この精神を受け継ぎ、
商人は商売繁盛を、一般の人は家内安全を願って、10月20日にお参りをします。

南座

四条大橋東詰南側にある櫓や破風を備えた京都唯一の歌舞伎劇場。
歌舞伎のみならず現代劇、コンサート等を行っています。
もとは、元和年間(1615~24)に幕府の許可を得て四条河原の東側に建てられた
七つの櫓(芝居小屋)の一つで、江戸時代には「南の芝居」と呼ばれました。
幕末には四条通りを隔てて北側にある「北座」との二座のみとなり、
明治26(1893)年に北座が廃絶したことで現存するのは南座のみとなります。
昭和4(1929)年に全面改装され、地上5階・地下1階となりました。
平成8年には有形文化財に指定されています。

[関連リンク]
南座

「出雲阿国歌舞伎発祥地」の石碑

南座の西側にある石碑です。昭和26(1953)年に松竹株式会社が建立しました。
四条大橋東詰北側には、平安建都1200年記念の際に
京都洛中ライオンズクラブによって建てられた出雲阿国の像があります。

ぎおん思いで博物館

南座に対して明治25年まで存在した「北座」があった辺りに建てられたビルの5階にあります。
祇園の400年の歴史や女性の伝統的な髪型、溝縁ひろし氏の写真展「京都の花街」や
創作和紙人形「阿国歌舞伎」を常設展示しており、夕霧コーナーでは新町・吉田屋に伝承されてきた
夕霧の手紙や当時の衣装を並べています。
入場料は一般200円、高校生以下は100円、毎週月曜日(但し祝祭日の場合は開館)が休館日です。
北座書店には京の本がたくさん揃えられています(入場無料)。

四条大橋

三条大橋や五条大橋と共に京都の名橋の一つとされています。
祇園社(八坂神社)への参詣道にあたるので祇園橋とも呼ばれるとか。
永治2(1142)年に勧進により架かれられたという記録が残っています。

一言コラム

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