 三条大橋下から 高札場跡を望む。
目の前に広がるは人々行き交う三条大橋は東海道五十三次の終点に当たる。橋の西南端には近年「弥次さん喜多さん」の銅像も建てられた。江戸から京都に出てきた浪士組(新選組の前身)も三条大橋を渡った時、「京都に来たんだなあー。」と感慨にとらわれたことだろう。
三条大橋の東北の西詰め北側のたもとに(現在スターバックスがある側)に幕府の高札を掲げる制札場があった。現在は沢山の自転車が止められ、土袋が積まれ、制札場の面影は全くないが、明治6年に取り壊される前は、石垣と木の柵に囲まれていたという。
慶応2(1866)年、長州藩を誹謗する高札が立てられたが、これが何者かに墨で塗りつぶされたり、引き抜かれたり、川に投げ込まれたり・・・。何度立てても結果は同じ・・・。業を煮やした奉行所は、新選組に監視を命じた。原田左之助、大石鍬次郎、新井忠雄らが橋の付近の会所や町屋に分かれて潜み、浅野薫・橋本皆助は乞食に扮装して橋の下から見張った。
夜、不審な一団がやってきて高札を引き抜き、川に投げ込み始めた。乞食変装組も原田隊も異変に気づき、斬り合いになる。捕らえてみると犯人は8名の土佐藩士だった。土佐藩士は2名が死亡、1名は屯所で尋問の後、奉行所へ引き渡され、残りは逃亡した。土佐藩は新選組と不和になってはまずいということで、近藤、土方、伊東らを祇園に招待して1席設けたという。
乞食に扮して三条大橋の下、というのは潜伏の常套手段だったのだろう。桂小五郎も朝敵となって逃げ回っている時は乞食姿で三条大橋の下だった。それが一番怪しまれない方法だったのだ。
 今の有喜そばの辺りの 三条会所に原田隊は待機した。
三条大橋の西南側から橋の下に潜ることができる。橋の下は整備され、鉄杭で補強されてはいるが、橋の上の喧噪が嘘のように静かだ。橋の下から制札場のあったあたりを覗いてみると、なるほどよく見える。乞食組の浅野薫達からも高札を抜く土佐藩士の姿がよく見えただろう。
三条大橋から原田隊が隠れた三条会所跡までは徒歩2分。先斗町歌舞練場の隣、現在は有喜そばの店がある辺りだが、ここから大橋の制札場にも早く駆けつけられたに違いない。ただし、ここから直接橋は見えないから、乞食組より早く異変を察知したともいわれる原田左之助の洞察力には脱帽だ。
 三条河原と三条大橋。 近藤勇の首もこの辺りに晒された?
2年後の慶応4(1868)年、局長近藤勇は戦いに敗れ、東京板橋で斬首。首のみが京都に送られ、思い出深い三条河原に晒された。まるで生きているような顔だったという。その後の近藤の首の行方は誰も知らない・・・。
浪士隊の京都入りから、高札事件の取り締まり、近藤の首が晒されるまで、新選組の栄枯盛衰をずっと見守ってきた三条大橋は今もなお、京の人々の往来を見守っている・・・。
住所:中京区川端三条西入ル
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