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安倍晴明を知る 9〜最終回

その9「術を披露しろと言われて、蛙を殺す」

陰陽師としての晴明の得意技は、式神を自由自在に操ることでした。式神とは、もとは、神や木片に過ぎないものですが、これに、霊力をもつ陰陽師が、息吹を 入れることによって命令を忠実に実行するしもべに変わります。晴明は、懐に常に、何枚もの紙を忍ばせていて、必要なときには目的に応じて鳥や動物、人間の 形をした式神をつくり、自在に操ることができた、と伝えられています。

そんな晴明の不思議な術をみたいと思う好奇心旺盛な人々は多かったようです。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)にも、僧が、術の 披露を晴 明にせがむエピソードがあります。

あるとき、晴明が、嵯峨野にある真言密教の高僧広沢僧正のお住まいに伺って、何かの用事を承っていたときのこと。若い僧たちが晴明にむかって、「式神を使うところを見たい」とせがみます。一度は断る晴明でしたが、ちょうど、そこへ、庭から蛙が、五、六匹ほど飛び跳ねて池のほとりに行くのが見えました。それ を見た僧たちは、「それでは、式神を使ってあの蛙を殺してみて下さい。」と晴明に頼みます。
「罪つくりなお坊さんですね。それでも、私を試そうとおっしゃるのでしたら、殺してお見せしましょう。」そういった晴明は、近くに生えていた草の葉を摘み 切って、呪文を唱えるようにして蛙に投げてやりますと、その草の葉が蛙の上にかかった瞬間、蛙はぺちゃんこにつぶれて死んでしまいました。

「これを見た、僧たちは顔色が変わり、あまりに恐ろしさにぞっとしてしまいまし た。」という言葉で、この話は閉じられています。
きっと、僧たちも目の前で起こった噂以上の力にびっくりしたのではないでしょうか?
このように、式神は、時には、呪詛の手先として人を殺すことも出来る恐ろしい存在でした。が、それだけではなく、他にも式神の種類は、いろいろあったので す。

その10「便利な式神」

晴明は、十二神将という十二人の式神を自由自在に操ったと言われています。
『今昔物語』には、式神について、こんな事実が書き記されています。
「この晴明は、家の中に人がいない時には、式神を使ったのであろうか。誰もいないのに、格子戸をあげおろししたことがある。まだ閉ざす人もいないのに、門 が閉ざされたりすることがあった。このように驚くべきことが、たくさんあったと語り伝えている。」

花山天皇退位のエピソードにもあった(「取り合えず、式神一人、内裏に行って事の真相を確かめてくるのだ。」)ように、晴明の家には、常にたくさんの式神 がいました。
式神達は、来客にお茶を入れたり、酒の支度をしたり、さらには掃除洗濯までやっていました。いやはや何とも、便利な式神です。

小説『陰陽師』の中にも、式神に関する博雅の疑問が書かれています。
「いや、おまえの屋敷がだよ」「おれの屋敷のどこが不思議だ」「人の気配がない」「それがなぜ不思議だ」「人の気配がないのに、鮎が焼けた」(・・・中 略・・・)式神を必要に応じて使うだけで、実は、本物の人間などどこにもいないのかもしれず、また、ひとりやふたりならば、ほんとうに人間も実際にいるの かもしれないが、博雅にはそれがわからないのだ。

当時の人々も、博雅と同じように、晴明の屋敷に対して、こんな疑問を感じていたのではないでしょうか?ちなみに、晴明の屋敷は、京の鬼門にあたる、土御門 大路小路にありました。現在の京都ブライトンホテルが建っているあたりだそうです。

式神は晴明が結婚してからは、妻(この人も実際にいたのかどうか存在が謎の人です。)が式神を見て、怖がるので、普段は一条戻り橋という橋の下に隠してお いて、用があるときだけ、橋に向かって手を打って呼び出していたそうです。
式神は、味方につければ、是ほど、心強い味方はいないですが、一歩呪詛の使い方を誤ると、自分の方が呪い殺されてしまう、危険な存在でもあったのです。そ んな式神をこんな風に自由自在に操れたのは、数ある陰陽師の中でも、晴明ただ一人だけだったようで、晴明は、「やはり只者ではなかった」のです。

その11「蔵人の少将を助ける」

式神は、先にも述べましたとおり、炊事・洗濯なんでもしてくれる、忠実なしもべですが、呪詛をかけた場合は注意しなくてはいけません。
今度は、晴明の力のすごさを知ることの出来るエピソードを見ていきましょう。
この話は『宇治拾遺物語』に収録されています。

内裏に出仕したとき、晴明は、牛車から降りてきた蔵人の少将の頭の上に、カラスの糞がかけられたのを見て、誰かが、彼に、呪詛を行っていることを知りま す。そして、そのことを蔵人の少将に伝えます。「あなたの命は、今宵限りですぞ」と。晴明にこう言われた、蔵人の少将は、彼に助けを求めます。その晩、晴 明は蔵人の少将と一緒に屋敷にとまり、寝ずに加持祈祷を行い、彼を守ります。すると、明け方になってから、だれか戸を叩くものがあります。戸を叩くもの は、少将に式神を放った陰陽師からの使いでした。「晴明様の家が強力な結界で守られていたために、式神が逆に戻ってきて、あろうことか、自分を放した陰陽 師を死なせてしまった」というのです。その者に事の真相を問い詰めると、陰陽師に呪詛を頼んだのは少将と同居している妻の姉妹の夫、蔵人の五将で、彼は舅 が少将ばかりを大切にするのを妬んで呪詛を頼んだらしいのです。
真実をしった舅は、蔵人の五将を家から追い出し、晴明には、十分な謝礼をしました。

上の話の場合、晴明の張った結界の力があまりにも強すぎたために、命令を実行できなかった式神が、発散されない呪詛のパワーを命令を下した側に向けた例で す。このように、一歩間違えれば、自分が殺されてしまう可能性もあるのです。
それにしても、カラスの糞を投げつけられただけで、式神の存在を見破り、果ては、相手の放った式神を返すなんて、晴明はやっぱりすごい人物です。

その12「智徳法師の式神を隠す」

相手の使う式神を隠すという術も晴明は、使ったようです。式神と、式神を使う陰陽師とは、何らかの契約関係がありました。相手の式神を隠すということは、 式神を操っている術を破り、さらに相手の式神に自分の言うことを聞かせるのですから、並大抵の術ではないと思います。

『今昔物語集』と、『宇治拾遺物語』には、智徳法師という播磨からきた法師の式神を隠す話が残っています。

ある日、播磨の国から来た智徳法師は、晴明を試すため、自分が陰陽師であることを隠して、晴明に「術を教えてもらいたい」と頼みます。しかし、晴明は、法 師がつれている2人の童子が式神であることをすぐに見破ます。「どうやらこの法師は私の事を試そうとしているのだな、ならば、ちょっと、からかってやろ う」と思った晴明は、何やら呪文を唱えて、彼の連れてきた式神を隠してしまいます。
晴明は、「今日は日が悪いので、また後日改めて、教えることにしましょう」といって、法師を帰します。法師も一旦は帰ろうと屋敷を後にしますが、いくら探 しても、自分の連れてきた式神が見つからない。再び、晴明の屋敷に戻って「私の式神を帰してください」と晴明に頼みます。しかし、晴明は、「あなたもおか しなことをおっしゃる。私がどうして、あなたの供を隠さなくては、いけないのですか」と意地悪なことを言って、帰してくれません。

法師は、「参りました。どうぞ許して下さい」と晴明に許しを請います。晴明は、「あなたが私を試そうとしたから、式神を隠したのです。他の人相手になら、 そういう方法で他人の力を試すのはよいですが、この晴明相手には通用しません。」と言い放ちます。法師は、他人の式神を隠す、凄い技を持っている晴明に は、かなわないと思い、「あなたの弟子になります」と言って、自分の名前を書いた名札を渡しました。

名札とは、呪詛に用いる札のことです。これを晴明に渡したということは、自分の命は彼に任せたということです。つまり、智徳法師は晴明に対して、命を預け る程の凄さを感じたということでしょう。

この智徳法師、この話では、まぬけな法師として、描かれていますが、播磨の国では、有名な法師だったようです。同じく『今昔物語』には、智徳法師が、船の 荷物を海賊に奪われて困っている船主に対して、術を使って、海賊から奪った荷物を取り返す話が載っています。
それにしても、晴明、力を試しにきた法師に対して、ちょっとからかってやろうとする節があるあたり、やはりちょっと意地悪なところがあったようです。

その13「道長と晴明」

あの有名な歌「此の世をば我が世と思ふぞ望月の かけたることも無しと思へば」を歌い、平安の世の栄華を極めた人物、藤原道長。道長は、藤原兼家の五男と して生まれたので、本来ならば家督を継ぐ立場の人間ではありませんでした。ところが、彼自身の持って生まれた運の良さでか、或いは、策略が効を奏したの か、ライバルが次々に亡くなっていきます。加えて、道長の娘彰子と一条天皇の間に子供が2人生まれ、彼らが成人して天皇となった為に、道長は天皇の外祖父 として絶大な権力を持つことになりました。
しかし、兄道隆が亡くなり、血縁の順序で言えば、その子伊周が後を継ぐはずの右大臣の座を道長が奪った辺りから何かと人に怨まれることが多くなります。そ こで、道長は晴明を頼りにするようになるのです。彼が晴明を頼るようになるのは、晴明がすでに八十歳近い大陰陽師となってからでした。

『宇治拾遺物語』には、土に埋まっていた呪詛を見ぬいた話が載っています。

道長が、法成寺を建立している時、道長は、毎日のように子犬と一緒にその様子を見に行っていました。ある日、いつになく、寺門で子犬が吠え、着物の裾を咥 えて中に入れようとしないので、不思議に思った道長は、晴明を呼びます。彼が言うには、その先には、道長を呪うものが埋めてあるとのこと。「ならば、埋め てあるものを探し出せ」と道長に言われた晴明は、すぐさまその場所を占い、探し出します。晴明に言われた場所を掘り起こして見ると、指摘どおり呪いをかけ た土器が出てきました。その呪文のかけ方を見て、犯人は、もしやと思った晴明。鳥の形に紙を切って犯人のもとに飛んでいくように呪文を唱えます。たちまち 紙は、白鷺になって南を指して飛んでいきました。「この鳥の落ちつく場所を見て参れ」と部下に命じる晴明。白鷺は、部下達をある老法師の屋敷へと案内しま した。

この話に出てくる「ある老法師」が、晴明の宿敵といわれた蘆屋道満です。道満と晴明の対決は、義太夫・浄瑠璃・歌舞伎など多くの物語に残されています。
一条天皇の時代といえば、ちょうどこの頃、紫式部が『源氏物語』を書いていた頃です。

この時代、『源氏物語』に描かれるように、一見表向きは華やかで優美な世界に思われがちですが、裏を返せば出世のために人を呪い、ありとあらゆる手を使 い、相手のことを蹴落としてまで権力をつかむ、どろどろした時代。恨む心は人を妬み、憎む心から生まれます。考えてみれば自分の能力以外の実力で定められ る運命、家督制度、摂関政治に代表されるような身内で構成される政治機構、これらの窮屈な枠組みが彼らの心を縛り付け、醜い心を生み出したといえるでしょ う。そしてそれは今の世も変わらないことですが・・・。

その14「ライバル道満 その1」

晴明の宿敵蘆屋道満は、智徳法師と同じ播磨の人でした。彼は、『蘆屋道満大内鑑』や『信太妻』では、晴明の父は保名の代からのライバルと書かれています。 ということは、道満は【道長と晴明】のエピソード中でも老法師と書かれているように、晴明より相当年が上だったのではないかと思います。さてこの道満、晴 明の噂を聞き、「私以上の天才陰陽師はいないのだ」と言う事を証明するために上京してきて、晴明と対決をします。

この対決は、内裏の庭で行われました。多くの公卿や役人たちを前にした法力勝負。
まず、始めに道満は、庭の砂を手にすると、それに念をかけ空に投げました。すると砂は無数のツバメに変わります。晴明は、手にした扇で一打ちしツバメを元 の砂に戻しました。今度は、晴明が、呪文を使って天空から龍をあらわし、辺り一面に雨を降らせます。それを見た道満は、仕返しとばかりに龍を消そうとしま す。が、どれだけ術を駆使しても龍は消えません。それどころか、雨はどんどん激しさをましていき、腰の高さにまで水位が増そうかという時、再び、晴明が呪 文を唱え、雨はぴたりと止まりました。最後の勝負は、木箱の中身を当てるという勝負。「これに負けたら弟子になる」と道満は宣言します。道満の答えは、 「木箱の中身はミカンが十五個。」

これに対して晴明は、「ねずみ尾十五匹」と答えました。始めから木箱の中身を知っている天皇や公卿たちは、「さすがの晴明ももはやこれまでか」と思いま す。ところが、木箱の中から出てきたのは、姿を変えた十五匹のねずみ達でした。(『ほき抄』『安倍晴明物語』より)

ミカンをねずみにかえるという相手に術の裏を返す技で、勝利した晴明。
今まで見てきた通り、晴明は必ず相手の術を読み、その上をゆく技を返す事で(「呪詛返し」の術)勝利を得ています。蔵人の少将のエピソードや智徳法師の時 にしてもしかり。これが晴明の陰陽師として凄いところなのだという人もいます。確かに単に技を使うだけなら、どの陰陽師にも出来ること。それをさらに裏を かく技でもって相手を制するのは並大抵の術使いでは出来ないことです。

その15「ライバル道満 その2」

さて、前回のエピソードでの約束通り、この対決の後道満は、晴明の弟子になります。ところが・・・。
晴明が中国の唐に留学している間に、彼の妻梨花といい仲になった道満。道満は、晴明が中国での修行で得た陰陽道の奥義が書かれた書物『金烏玉兎集』(きん うぎょくとしゅう)を、梨花をだまして盗み出します。そして、道満は晴明に「自分は夢の中で文殊から『金烏玉兎集』を得た」と嘘をいいました。それを聞い た晴明、「そんなはずはない」と、自らの首をかけて道満と戦います。道満は盗んだ時に書き写しておいた『金烏玉兎集』を懐から取り出すと、晴明を殺してし まいました。それを知った晴明の中国での師、伯道上人は彼の骨を集め、秘術によって彼を生きかえらせます。
「晴明は生きている」と告げる伯道上人。道満は「もし生きていたら、自分の首をやる」といいます。生きかえった晴明は道満の首を斬り、彼が奪った『金烏玉 兎集』を焼却しました。(『ほき抄』『安倍晴明物語』より)

この話は、実際にあった話ではなく、後から作られた作り話だと言われていま す。

というのも、一つには晴明が留学したという中国の「唐」。時代的に見てみると、この時、中国には唐という国は存在しませんでした。存 在していたのは、年代から察するに「宋」ではないかと言われています。それからもう一つ。中国での師である伯道上人という人物、『ほき内伝』を著し、陰陽 道の奥義を極め、千年も生きた人物らしいのですが、この人どうやら架空の存在らしい。それにこのお話には、その存在が文献に残っていないことから、謎の人 物とされている晴明の妻の名前まではっきりと記されています。以上のことから、このお話はフィクションではないかと言われているわけです。

江戸時代(一七〇〇頃)、人形浄瑠璃や歌舞伎の世界では、晴明と道満の対決物が流行しました。歌舞伎のようなスペクタル演劇は、元あった小さな事実に脚色を 加え、その時代の風刺を巧みに物語の中に織り込めながら壮大な物語を作り上げていきます。上の話はおそらく、晴明と道満の宮廷での対決事実をもとにして 作ったのでしょう。道満は晴明のような朝廷つきの陰陽師ではなくて、民間の陰陽師でした。裏では国を痛烈に批判しながら、表向きは勧善懲悪の世界の出来事 としてうまく片付ける歌舞伎の世界。朝廷お墨つきの立場の晴明は、正義として、それに対して民間の立場である道満の存在は悪として描きやすかったのではな いかと思います。

その16「泰山府君の術」

【ライバル道満 その2】のエピソードでは、道満は、陰陽道の奥義が書かれた書物『金烏玉兎集』を晴明から盗み出します。この話はフィクションだとは言い ましたが、ここの部分だけは事実のようです。というのも、道満が晴明に近づいた本当の理由は、秘術中の秘術「泰山府君の術」が知りたかったからだという説 があるからです。「泰山府君の術」とは、人の魂を祈祷で取り替える術で、朝廷が門外不出とした術でしたから、当然ながら、民間の陰陽師という道満の立場か らは、決して学ぶことのできない術でした。

晴明はこの術が得意でした。彼が死者をよみがえらせた話をいくつか取り上げてみます。

『今昔物語集』には、三井寺の高僧の命を助けた話が、『私聚百因縁集』には息子の命を自分の命と引き換えにしてでも助けてほしいと頼む親に対して、両方の 命を助けた話、『蘆屋道満大内鑑』では、当時少年だった晴明が、悪右衛門に殺された父親保名の命をよみがえらせた話、又別の伝説では、道満に争って負けた 保名の命を一条戻り橋の下でよみがえらせた話などが残っています。
立てなければなりません。『私聚百因縁集』では命の取り替えを願うのは、親です。親ならば子供の命を助けたいと望むのは、当然でしょうから、身代わりにな るのもかまわないでしょうが、それが、他人となると話は別です。高僧の命を救う話では、誰か身代わりになる人はと尋ねられた時、皆自分の身可愛さに手を上 げませんでした。立候補に手を挙げたのは、意外にも普段からあまり目をかけられていなかった人物でした。
『今昔物語集』『私聚百因縁集』両方の話とも、身代わりになった人、死んだ人どちらの命も晴明は助けています。こういう点が実に私は凄い人だと思います し、魂の優しさを感じます。

その17「鬼」

平安時代には、怨霊だけでなく、恐ろしい鬼もいたようです。
源頼光の時代、鬼達は、都の人々を食い殺し、貴族の娘をさらい、都中を荒らしまわっていました。都を騒がすものの正体を晴明が占いによって見破ります。 「それは、酒呑童子という鬼の仕業である」と。そこで頼光の四天王と呼ばれる人々、渡辺綱・坂田公時(金太郎のモデルとなった人)・卜部李武・碓井貞光 が、天皇に命ぜられ大江山の鬼退治に行くという話が『大江山絵詞』には書かれています。(この時、晴明六十九歳。歳が歳だけに、鬼退治には同行せず、都の 防衛を担当しました。)

下の話は四天王の一人、渡辺綱が鬼に出会った時の話です。

渡辺綱が、頼光の使いで一条大宮まで行ったときのこと。その帰り道、一条戻り橋で女の人に声をかけられます。実はこの女の正体、家まで送ってほしいといっ ては、男を食い殺す恐ろしい鬼でした。「送っていってさしあげよう」と申し出る綱を見て、我が意を得たりと正体をあらわした鬼。しかし、綱は鬼を見ても少 しもあわてず、腰に刺した刀を抜いて鬼の片腕を切り落としました。
綱が差し出した鬼の腕をみて、頼光は当時播磨の守であった晴明を呼び出します。晴明は「綱には、七日間の暇を与えて物忌みをすべきだ」といいました。さら に、鬼の手に封印をして綱に仁王教を読むよう指示します。
法会を開始してから六日目のこと、綱の義母に姿を変えて鬼は片腕を取り戻しにやってきました。「どうしても鬼の片腕を見せてほしい」と言う義母の頼みを断 りきれなかった綱。腕の入った箱をあけた瞬間、鬼は正体を著し、自分の腕を取り戻すと彼の破家を突き破って逃げ去っていきました。

当時、本当に鬼がいたのかどうかはわかりません。
ただ、木山敏江さんという漫画家の方が書かれた『大江山花伝』という本によると、鬼とは、人の醜い心が具現化したものだそうです。鬼といい、怨霊といい、 人間の醜い心は、その想いが深くなると時には、人間ではない何物かに姿を変えてしまう。晴明はこんな醜い人間の心を慰めるために陰陽師という仕事をしてい たのです。

その18 晴明の失敗

完璧な晴明にも失敗はなかったのでしょうか?
『小右記』という本には、晴明が始末書を出した話が載っています。
九八八年、天皇、皇后は、突然現われた凶兆に、物忌みを行いました。その際、祭りによる供養を命じられましたが、これを担当するはずの晴明がなんと祭りを 放棄したとあります。
このとき晴明六十八歳。連日の仕事、仕事で疲れていた晴明、たまには、休みたかったのでしょうか?それとも他に何か深い訳があったのでしょうか?
もう一つ、九八七年晴明の家に落雷が落ち、家の一部が破損したという事件が起こりました。(『日本記略』)占い師は自分のことは占えないと良く言われます が、大陰陽師と呼ばれた晴明でさえも、自分のことは占えなかったのでしょうか?

最終回 晴明の後を受け継いだ息子達

晴明は、陰陽頭(陰陽寮の中でも最高の地位)にはなれませんでしたが、代わりに賀茂家が独占していた天文道と暦道のうちの、天文道を譲られました。
私生活では、2人の息子に恵まれました。
長男吉平は、あまりぱっとしない人でした。地位は父親よりも高い位まで出世しましたが、日でりを止めさせ、雨を降らせる儀式では、雷は鳴れども、雨を呼ぶ ことはできなかったという情けない記録が残っています。一方、次男吉昌の方は、賀茂保憲に可愛がられ、陰陽頭にまでなっています。
そして、吉平の4人の息子達、つまり晴明からみれば、孫にあたる人達に優秀な人材が多く生まれました。
隔世遺伝ですね。彼らによって、安倍の力は全国的に広がり、賀茂家と並ぶほどの優秀な家になりました。そこで、名前を土御門と変え、やがて、戦国時代に なって賀茂家の血筋が絶えてからは、暦道も安倍家が独占することになり、陰陽道は全て安倍家が独占することになります。そして、現在へと続く訳ですが、こ れらすべての元を作ったのは、安倍晴明でした。
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※このページの掲載情報は、取材時のものであり、現在のもの、歴史上の事実とは異なる場合がご ざいますので、ご了承下さい。参考としてご覧頂きますようお願い申し上げます。

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