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ここでひとつ、西陣の話をしましょう。 高級織物の本場、きものの西陣織のふるさとです。
西陣というのは堀川通りの西で、応仁の乱(1467〜77年)のとき、細川勝元ひきいる東軍にたいして、西軍山名宗全が陣を張ったことから、そう呼ばれるようになりました。 このあたりには、京都御所の御用を承っていた織元がたくさんいて、そのころから織物の産地としてつづいているわけです。 今でこそ、西陣といえば日本で最高級の織物の本場といわれますが、途中で何度も大きな危機に見舞われました。 それをひとつひとつ乗り越えて今があるのです。
まず、最初の大きな危機は応仁の乱。 11年間にもわたる大戦乱で、京都は丸焼けとなりました。 織り屋さんたちは戦火を逃れて、奈良や堺、遠く山口まで疎開して西陣はカラになってしまいました。 しかし、これは疎開先のひとつであった堺が貿易港で、職人さんが中国の絹織物の技術を身につける機会となって、後の京の織物を発展させることにもなるので、あとで思えば幸運なことでした。 そして第二の危機が、江戸時代の天明年間。 西陣の機織りの三分の二くらい焼けてしまうという大火事、「天明焼け」(1788年)に見舞われたのです。 第三の危機が、この間の太平洋戦争。 「京都は、戦火を逃れた」といわれますが、「織りたくても糸がない」、「織り手が出征して織れない」、手も足もでなかったわけです。
でも本当の危機は、今あげたような戦争や災害ではありません。 日本の近代化の第一歩、明治維新こそが西陣の、いや、きもの文化の最大の危機となったのです。 明治天皇は即位の式典にあたって、髷(まげ)を落とし短髪に調え、洋装姿でのぞまれました。 それまで西陣のパトロンだった皇族も上流の人たちも、いっせいに洋装に切り替え、明治政府が尻押しする欧化政策で、新しいもの好きの庶民も、ワッと洋服に飛びついたのです。 鹿鳴館には、伊藤博文さんをはじめとする貴顕紳士といわれた男性たちはフロックコートに身をかため、その婦人たちは、ビクトリア王朝風のバッスルスタイルのドレスで艶やかさを競いあう時代になりました。 1000年にもおよぶ、きものの歴史が、わずか20年間で激変したのです。
時代の変化に適応できなければ、どんな産業でも衰退します。 現に、多くの職人さんが職を失いました。 伝統という重い分銅をさげているきもの文化にとって、軽妙に身を翻すなどということは、なかなかできることではありません。 これでは、「西陣はこれまでか」と思うはずです。 事実、首都が東京に移って、京都の人口もぐっと減ってしまいました。 西陣の危機だっただけでなく、京都そのものも危機に瀕していたのです…。
市田ひろみ著「京の底力」 ネスコ文芸春秋より
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