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京都は都が出来た1200年前よりずっと以前から町として存在し、794年にその地を選んで都が造営され、先に住んでいた豪族(渡来人)の力を使いながら都を形づくってきたのです。 常に長くあるのは貴族の存在であり、貴族をパトロンとして工芸が生まれ、商品がつくられ、町衆も貴族に憧れ、同じものを求めてきた歴史を経てきました。 その歴史の中から、価値判断の基準が形成されました。
価値判断するのに、いろいろな物差しがありますが、アメリカナイズされた現代の日本人の価値判断は、高い安い、大きい小さい、長い短いというものが大半を占めているように思います。 しかし、そう言った合理的なものよりも、美しい、楽しい、おいしい、心地良いなどの、はかりにくい非合理的なものの方が、生きていく上において「ゆとり」を得られます。 又、人々の心を和ませたり、豊かにしたり、真の満足は、一見無駄に思えるものの中にあることを無意識の内に持っているのではないでしょうか。
京都の人は普段から良いものを着ているわけではありません。 それが特別の「晴れ」の日にはおめかしをするのです。特別な日に良いものを着ることをその日まで楽しみにして待ち、着ることにより、もっと豊かな気分に浸るわけです。 お正月や初釜、パーティー、家庭行事、花見、月見そして顔見世、そう言った晴れの場のために着物をつくる。 そのためにお金が無くなる。だから「着だおれ」と言うのかも知れません。 自分の心の満足だけではなしに相手に不愉快な思いをさせないという気配りからなのです。 私の母親などは、私が旅行に行く時や病院へ行く時も真新しい下着に着替えさせました。 これも人様に対する気配りなのでしょう。
京都に人はよく「不細工どすなぁ」と言います。 これは勉強が足りないとか、工夫が足りない、他人から見ても美しく見えないことを言います。人と同じことをしていても駄目で、同じものであっても工夫次第、見せ方次第によって、もっと良く見せられるということです。 そのためには、常日頃からより良く出来るために、見たり、聞いたり、味わったり、匂ったり、触れたりという五感を常に働かせ、美しいものを見たり、良い道具に触れたり、美しいものを身に纏ったり、いろいろと教えを請うのです。 本物に接することにより、自らの美意識が高まるわけで、自然と立居振舞いや、作法も身につくのです。 一度出来た美意識はなかなか落とすことは出来ません。 それを維持するために頑張れるのです。
京都の着だおれは、つくることよりも審美眼を養うことです。 その審美眼によって善し悪しを判断するので、量とか価格などで評価するよりも、質の高さを見分けるのです。 京都では良い職人を育てるのは厳しい目を持った顧客であると言われ、常に真剣勝負をしている感があります。 それゆえ、客を見ながらものづくりが行われ、職人と顧客との間に連帯感が出来、馴染みになるのです。だから技術や感性が磨かれるのです。
又、着物は子孫に受け継がれ、美術品として引継がれる財産で、単なる着るものではなく、着こなし、着付け、ライフスタイルとしても伝承であり、京都では着物を「箪笥(たんす)の肥やし」と言います。 箪笥(たんす)の中にあるだけで、知らず知らずの内に美の環境をつくり、美意識を育む肥やしだと言うのです。 そして古くなると普段着になり、座布団となり、おじゃみになり、最後は灰になって畑の養分になると言う。ものを最後まで残すか、使い切るのが京の考え方であり、いわゆる始末こそ、最も美しい生活の知恵なのであり、本物を買えば結果的に、値打ちがあることを信じているのです。
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