| 大文字の謎! |
■なぜ、”大”の字なのか?
- 「大」はこの世を構成する「地」・「水」・「火」・「風」の四大要素(四大)の「大」であり、亡くなって四大へと戻ったご先祖の帰るところを表しています。
- 火は、古来から我々の願いを神のもとへと運んでくれるものと考えられてきました。
- 時の権力者に殺された町衆の姿を表しているという説も…(怖いっ)。
- 星を象り、悪魔退治の五芳星の意味を持つ!?
- 一年中位置が変わらない北極星(北辰)は神の化身とされ、その姿を象って、同じく動かない山に灯した!?
- 弘法大師が、護摩壇を大の字型に組んでいたから!?
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■起源は?
俗説、諸説ありますが、確かな事は分かっていないようです。
- 平安初期に空海が始めた?説
”大”の字は、弘法大師が書いた文字とも。
「都名所図絵」等によると、往古山麓にあった浄土寺が火災にあった際、本尊阿弥陀仏が山上に飛来して光明を放ったことから、その光明をかたどって点火したものを、弘法大師空海が大の字に改めたそうですが、その他の記録に大文字が登場しないため、俗説とされています。(「大文字噺」「山城四季物語」等空海起源説に関連)
- 室町中期に足利義政が始めた?説
大文字山の麓、銀閣寺にゆかりのある足利義政が、早くに亡くした子の足利義尚のために命じたとか。
足利義政の家臣・芳賀掃部(はがかもん)が、相国寺の僧・横川景三(おうさんけいせん)の指導のもとに設計したとの説です。
旧室町幕府跡(花の御所・室町殿。室町今出川辺り)に送り火の正面が向いている、という声もあります。
仏教が一般社会にも広まった室町時代以降に始まったのではないかというのが一般的な説のようです。
近年、銀閣寺から送り火に関する古文書や大文字山が銀閣寺の領地であったという資料が発見され、足利説が有力だという声も挙がっているそうです。
- 江戸初期に能書家・近衛信尹が始めた?説
近衛信尹、本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に当時の三筆といわれた能書家でした。
江戸初期、寛文2年(1662)に刊行された「案内者」に「松ヶ崎には妙法の2字を火にともす。山に妙法といふ筆画に杭を打ち、松明を結びつけて火を灯したるものなり。北山には帆掛け舟、浄土寺には大文字皆かくの如し。大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にてきり石をたてたりといふ」との記述があるそうです。
- 妙法もまた、鎌倉末期に日蓮宗の僧が妙の字を書いて点火し、法は近代になってから始まったととも、鎌倉末期 守寺の涌泉寺が日蓮宗に改宗した際に、題目の一部である「妙」と「法」を用いたとも言われています。
- 船形は、慈覚大師円仁が唐の帰路で暴風雨に見舞われ、南無阿弥陀仏を唱えた(海に投げ入れた)事によって無事に帰還することができました。その船を形どったものと言われています。
- 左大文は、先の三山より遅くに始まり、如意ヶ嶽の大文字が室町御所の池に映った様子を見て大北山に「左大文字」の送り火を始めたのが起源といいます。
明治時代には大の文字に一画足して「天」とした事もあったとか。
- 鳥居形は、弘法大師が刻んだ石仏千体の開眼供養の際に点火されたとされています。
麓は愛宕神社の参道・鳥居本地区で一の鳥居が立っている事からこの形になったと思われます。
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■昔は五山ではなく十山だった!?
江戸時代後期、享保2年(1717年)の『諸国年中行事』には、市原に”い”、鳴滝に”一”、”竹に鈴(「竹の先に鈴(竿に鈴))”、西山(北嵯峨)に”蛇”、観空寺村に”長刀”などがあったと伝えら、明治以前には十山で行われていたそうです。
「竿に鈴」は大正初期まで点火されていましたが、その場所は一乗寺、静原、西山(松尾山)のいずれか不明確になってきています。
明治期に、急速に近代国家を目指した日本では、「大文字」や「祇園祭」の信仰を迷信として、明治初年から10年の間、双方を禁止していまいました。
その後再開はされたものの、昔ながらの日本の伝統が重視されなかった当時では、資金等の援助をなかなか受けられず、第二次世界大戦前までに送り火は次々と無くなり、現在では五山となりました。 |